◆修行・修法する上でヒントになる先人の言葉◆

◇伊勢神宮ゆかりの倭姫命、
「黒(きたな)き心なくして 丹(あか)き心もちて清く潔く斎(ゆまわ)り慎み
   左の物を右に移さず、右の物を左に移さずして
左に帰り 右に廻る事も 万事違う事なくして 大神に仕え奉れ、
元(はじめ)を元とし  本(もと)を本とする故なり」

◇神通は信と不信とにあり。
◇信即応。
◇信のある状態は、そのままが応の状態でもあります。
◇神様は裁判官ではなく、救済者であります。「信」ある者をすべて救われるのです。

◇幽冥に通ずるの道、唯それ専修にあり。
◇修行の要訣は同一法を無限に反覆して続行することです。本田先生が「専修」と申されるのもそのことです。
◇何かの都合で、時間にも恵まれ、心身ともに清々しく神気明澄と思はれる日が、一ケ月に二日や三日はあるものです。そのときが大事です。そのときこそ神に選ばれた時です。そんな時には、万事を放下して、他のことは他日にするとして、一心不乱、神法道術の実修に能(あた)う限り長時間、至信にやって頂きたいです。必ず「なるほど」と思われます。

◇ひとを誹謗(ひぼう)するということは神々の最も嫌ひ玉うもので、口に出して誹謗(ひぼう)せず心中で誹謗(ひぼう)するさえ魔縁を生ずるものです。
◇自分自身を卑下することも良くありません。
◇神道に於ては殊に慢心ということが大禁物であります。神ながらの道を行く者の最大の危険物なのであります。日々夜々反省すべきは我が心のたかぶりであります。心がたかぶると正神は守護感応の出来ない深き幽契があるのであります。正神の手が離れる瞬間にマガモノと感応するもので、間髪をいれず鏡花水月であります。神ながらの道の修行とは何ぞや、慢心根絶の修行なり、と言ってもよいかと思われるほどであります。
「しまった」と気がついたら負け惜みの気を出さずに、いさざよく反省悔悟すれば又た即刻正神界の愛の光りが魂ひを抱擁いたします。
自己を弁護するに聰明な人ほど神に遠ざかります。

◇神法道術の修行は「邪念を去る」ことが第一です。邪念というと何か不道不義の悪い心を意味するようにお思いでしょうが、ここで申すのはそんな意味ではありません。つまり、他人を批判したり自分を批判したりする「たくむ心」を意味するので、無邪気でない心のことをいっています。

◇「重んずれば重くなり、軽んずれば軽くなる。」これは宇宙の祕密であり、公然の祕密であり、あけっぱなしの神祕であります。どんな真実な対象でも、これを疑えば疑わしい対象となります。
狎(な)れる心は軽んずる心となり疑う心となります。「疑う心」は即ち「魔心」でありますこと古人も説ける如くであり、魔心は魔縁を呼び魔に感ずるのです。

◇神に狎(な)れ、人に狎(な)れ、神法道術に狎(な)れ、「悪ずれ」がすることが一晩恐ろしいことです。気がつけば反省して、自己の神魂を澡雪すべきであり、このこと、甚(はなは)だ平板なことで神祕とも神祕なる伝えです。
これがために、一体の「お守り」でも、一つの神術でも、たちまち瓦礫となり、たちまち黄金となります。

◇神を畏(おそ)れ法術を重んずることが神訣ではありますが、しかし、修行にも修法にも賓主の別ということがありますので、おびえるような弱い気では駄目です。赤魔祓禳とか霊的国防とかいうような修法は、天地の主たるところに立って万有に号令するほどの浩然の気をもって当らねばなりません。

◇心を清めるとは、つまり「まこと」になることです。「まこと」とは二心無きことです。
漢字では「信」にあたります。上古は人間の言葉が「まこと」であったから人という字と言という字で信をあらわしたのです。
信ずべきものを疑う心が腹の底に微塵でも往来すると何ごとも駄目になってしまいます。 疑いの心は神に遠ざかるもので、どんなに水をかぶったり長時間熱祷(ねっとう)をささげたりしても其れは要するに「魔行」です。

◇あやまったと気がつけば、断然意を決して、二心になりやすいものなど一切焼き捨てて、「心のみそぎ」をすべきです。それが我が国ぶりであり「ますらをぶり」であります。思い切って「心のみそぎ」をすると実に心身すがすがしくなり、何ごとも不思議にすらすらと行くものです。

◇人が為(な)すべき当然の工夫や努力をせずして徳を失えば、神は守ることが出来なくなる。これを鈴木重胤先生は「神の守る処を失うに非(あら)ず。人の守られる位を失うなり。」と言われました。
わが国土の正しい神々は「神ながら言挙(ことあげ)せぬ、うぶな心」つまり「無邪気な心」でないと感合せられません。無邪気でなければ「人その守られる位を失う」のであります。

◇一言の神語の唱へでさえ、それに神験があるのは正しい伝承の「霊的むすび」が神界に通じて居るからです。伝えて頂いた向きに対して不信の言動をする時、自分でスイッチを切断してしまうことになり、正神の感格が無くなれば、後はそこへ妖魅(ようみ)が乗じていろいろのことをやらせます。つまり盗法というようなことは正神界に管するものは出来ませんのです。このことは古人が切々に申して門流をいましめて居られる通りです。

◇いまだ心地を悟り得ない人が説法したり伝道したりすることを軽んずる人が昔からありますが、悟った人かどうかというような品定めは無用であります。
たとえ名利のためにでも説法し、伝道し、善行あるべきです。順逆みな神縁となるものです。
私達は神々の愛にまかせ、神にまつらうことを人にすすめるのです。神を研究するという意味ではありません。
神「を」どうするというのでなく、神「に」まつらうのです。その「を」と「に」とが大事なところです。

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